私は小学生低学年の頃から、ある事象に興味が湧くと時間も忘れ夢中になって1人でごそごそやっていた事を思い出します。それは絵や漫画を描く事であったり飾ってあった自動車のプラモデルをバラしドラゴン花火を装着してジェットエンジン風に走らせたり(違反行為につき良い子は真似をしないでください。)と、いわば風変わりで実験めいた行為に関心があったのでしょうか。
なのでその後高学年になると今度は父親のバカちょんカメラ(若干隣国の差別用語に聞こえますが)を借りて、当時はカラーフィルムが高価だった事もありフジカラーで出していたネオパンSS(ISO100)モノクロフィルムを使って、時には当時やたらと流行っていたプラモデルのジオラマ(箱庭で作る実写さながらの景観)に凝ってみたり、倍率8倍程度の双眼鏡をレンズ全面に固定して疑似望遠レンズに変えて野鳥を撮影した事もありました。
ジオラマに関しては当時私は撮影の原理など全くの素人でISO感度をシャッタースピードと勘違いしていたり、そもそもその時代はバカちょんの出始めの頃で拝借した初期型のジャスピンコニカ(コニカC35ストロボ外付けタイプ)の最短撮影距離が確か1メートルだったと記憶しています。希望のアングルにしようとすれば30センチまでの接写が必要なのですが、ファインダー越しに近距離撮影してはピンボケ写真ばかり撮っていました。
しばらくしてその事に気づき最短1メートルで写すと余分な背景まで映り込むわ、被写体は限りなく小さくなるわで余りにも無惨な結果の連発に時を経るにつれ写真撮影と仕上げの理屈に徐々にのめり込んでいったように思います。前玉に双眼鏡固定という方式については、後にレンズの大傷に繋がり両親からこっぴどく叱られた事からこちらも断念。今で言う通販で安価な望遠レンズが発売されているのを新聞紙上で見つけるや否や、とにかく一眼レフが無性に欲しくなり、小学生ながら新聞配達のアルバイトまで始めました。
夕刊配りを数ヶ月続けて得たバイト料は合わせて4〜5万円程度、それでもニコンやキャノン、ミノルタ、ペンタックス系の有名ブランドは高嶺の花で手に入る筈もありません。ある日、カメラ店の陳列ケースの隅にペトリV6というカメラを見つけ、なんとボディと50ミリレンズがセットで3万円台でした。取りあえずこれでいいやと勇んで購入した事を思い出します。初めて嗅いだ皮のケースの匂いとシルバーボディの手触り感は今も忘れません。
通販の格安望遠レンズとペトリ用マウントアダプターを合わせて注文、しばらくすると待望のレンズが到着しました。若干のガタ付きはありましたがとにかく安かろう悪かろうで子供にとってはそれでも十分過ぎるほどの価値ある一品と言いますか、まさにお宝でした。画面周辺の像の流れも気になりましたが双眼鏡作戦に比べれば格段に素晴らしいシャープネスに感動冷めあらず、撮影行為が堪らなく楽しくなって下校するやいなや被写体を求めて家を飛び出す毎日でした。
ある日曜日、高級カメラのカタログ欲しさにカメラを購入したそのお店に行くと店主の方だったでしょうか、「来週、店の前でモデル撮影会があるんだけで参加してみないか。」と聞かされ何の事やら皆目見当もつかないまま興味本位で参加する事に。
そのカメラ店は駅前にある屋根に囲われたアーケード型商店街の一角にあり、雨天でも傘無しで買い物が可能で勿論撮影会は雨天決行。当日は子供から見ればまるで外人モデルとも見紛うばかりの美人女性が2人、可憐なドレスを身にまとい半ばセクシーな出で立ちに最年少の私(当時中学一年生)を含め大勢の参加者が彼女らを取り囲んで止めどなくバチバチとシャッター音を響かせていました。
驚かされるのは実に私自身でした。初めてとあって興奮気味の私は、何を思ったのか他のカメラマンが躊躇するような姿勢を連発、地面に寝そべったり時にはモデルの顔に張り付かんばかりに接近したりと驚きの超奇抜なアングルで絶えず狙っていました。確かあの当時で既に暗室紛いな事もやっていたと思うので多分モノクロの自家処理仕上げだったと思います。
結局作品の応募はしませんでしたが、もしかしたら入選か特別賞辺りに入ったかも知れないので今思えば残念です。撮影会終了後に店主さんから「初めてなのに君凄いね。後で写真見せてよ。」と言われましたが、何しろ恥ずかしくてそれっきりでした。43年前の出来事です。
『過去と未来を結ぶもの_エピソード1』はここまで。次回をお楽しみに。 →エピソード2へ |