前回は自身が初めて写真という存在にそこそこ興味を抱きその範囲内で経験した幾つかのあらましをご紹介しました。今回はなんと一旦天職とも言える写真(画像表現)から離れてしまい人生の岐路に立つ自身を、お恥ずかしながらその一端を詳らかにお話ししたいと思います。
私が通っていた埼玉県の某私立高校には文化部では珍しくフォークソングを主体としたクラブ(当時はまだ同好会)活動が存在しました。私が高2の時、校内文化祭の催しのひとつに歌謡コンテストという行事が設けられ、なにげに私もひとつ人前で歌ってやろうという意気込みからしゃあしゃあとエントリーしてみました。
実は小学生の低学年の頃から基本的に歌う事が好きだった私は、買い物など親の後ろをついて歩いては結構大声で当時流行っていた歌謡曲や親父が好きだった演歌、軍歌(同期の桜)なんかを恥ずかし目もなく喉を鳴らしていた記憶があります。自分では歌は結構うまいと思っていて将来は歌手になりたいと訴えると両親に決まって咎められました。
文化祭のそのコンテストのステージに立つ前、確か高1の頃だと思いますが一度だけ日本テレビでお馴染みだった萩本欽一司会の『スター誕生』に挑んだ事がありました。3回戦を勝ち抜くとテレビ出演が確定するのですが残念ながら2回戦敗退で希望は叶いませんでしたが、第一予選でまず100人単位で争うルールになっており、『予選一発目だから合格者の半分ぐらいの中に入ればいいか』と高を括っていると発表の掲示板に張り出された予選通過者は私を含む僅か3人。流石にプロの道は険しいと、つくづく感じました。
落選後も懲りずにその後すぐ東京恵比寿にある劇団『劇団ひまわり』のオーディションを受けに行きました。大雑把に言えば単に芸能界に憧れていただけかも知れません。何故かこちらはすんなり合格したので『俺ってやっぱり何か持ってるな』みたいな馬鹿げた妄想を浮かべつつも合格者が後日集まっての入団の趣旨説明で、はたと気づきました。
入会金?演技指導料?その他諸々で数十万円を用意しろというお達しが言い渡され勿論親の承諾書兼正式契約書も持たされ一旦帰ってその事を話すと『家にはそんなお金はありません!』であっけなく撃沈でした。元々いわゆる水商売を嫌う親なので仕方ありません。家を飛び出てまでやってみようと言う根性も無く、静かに終焉に至ったという今になってみれば苦い思い出のひとつになっています。
そんなこんなで校内歌謡コンテストでは絶対にグランプリを獲ってやると選曲は清水健太郎の大ヒット曲『失恋レストラン』で勝負に出ました。結果は案の定グランプリでした。実はここからが本番なのですが、私の歌いっぷりを体育館の中央で観ていたフォークソングクラブの同年のリーダーから後日入会の誘いが来たのです。
「お前歌うまいからうちでメインボーカルを務めてくれ」と言われ二つ返事で早速部室に向かう事に。
高校生の頃も相変わらず好きな写真はやっていたのですが、こと音楽の世界にハマってしまうと当然写真は疎かになっていきます。学校行事とは別に各所でコンサートを開催したり、とあるレストランからのステージのお誘い、各地で活動するバンドとのコラボレーションなどコミュニティーは盛んでした。
その後自身も楽器に興味が出て来てフォークギーターからエレキギター、べース、ドラム、キーボードと色々いじってそこそこ音が出せる程度まで覚え、時にソロギターを演奏する事もしばしばありました。そうこうしている内にいよいよ卒業の時期が訪れます。
その頃両親が丁度家を建てたいと言い出していて、お前が進学するのなら先送りするという事でしたが、既に音楽にのめり込んでいた私は音楽で食っていく決意が強かったせいか進学はせず、ミュージシャンの道を志したのです。つまりここからが人生転落の始まりになります。続きはまた次回。
※各バンドとのコミュニティー活動は卒業後もしばらく続きました →エピソード3へ |